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主観と客観
主観的な見方は誤りやすく、しばしば人と衝突します。客観的な見方なら公平に、誤りに気づかせてくれます。しかし、主観は悪で、客観が善だとの対立にはなりません。主観と客観は別々にあるのではありません。主観と客観は分かちがたく、単純な対立関係にはありません。主観と対象との関係を超えることで、客観に至ることができるのです。人の物事の見方として、時々の意識のとる位置に関わります。意識の有り様を確かめることで、客観的な見方を意識的にできるようになります。
日常生活で人は主観と客観の区別を意識していません。人も生物進化の過程で環境と身体との相互関係を調整する能力を発達させてきたからです。環境と身体との相互関係を調整する中枢神経系である脳で意識を発達させてきました。意識は物事に対処し、身体の健全な維持をにない、になうことで発達してきました。人に限らず動物は物事を区別し、物事の関係を利用して生活しています。身体秩序を維持するには飲食し、排泄し、呼吸し、睡眠を取ることが不可欠です。この身体秩序が崩れれば病気になります。身体秩序は健康であれば特別に意識しなくてすみます。
身体秩序の基礎に物理化学法則とされる関係が物の秩序があります。芸術の価値は表現する秩序の高度さと、壊れずに残された秩序の尊さと考えることもできます。人の社会は生産、流通、消費からなる社会的物質代謝秩序で成り立ってます。この世界は秩序として成り立っています。
どのような欲望も、これら秩序を無視しては実現しません。物事の区別と関係が時や場所の違いを超えて保たれるのが秩序です。世界の秩序には多少乱されても回復するだけの力があります。ただし、基礎となる秩序が崩れたなら、基礎上のすべての秩序は壊滅します。元々世界の秩序は全体として崩れつつある中に(このことは熱力学によって説明されます)、部分的秩序をつくりだしています(この例として137億年の宇宙の歴史が、その中での生命の誕生と進化があります)。
単純に言ってしまえば「秩序は普遍的な区別と関係」ですが、人に理解できる世界の秩序は限られています。それでも物事の秩序に従い、利用することで生活できています。その生活をより良くしたい、生活を乱す災害、事故、病を避けたいと願います。世界の秩序をより理解することで、自らを取り巻く秩序をより秩序立てることができます。仕事や作品として秩序をつくりだすこと、新しい秩序に接することは限りのない楽しみになります。
科学は物事の秩序を様々な法則として明らかにしてきています。法則を学ぶことで世界の秩序を知ることができます。しかし、法則を知っただけでは秩序を利用し、秩序をつくりだせません。秩序を利用し、秩序をつくりだす自分自身の秩序が問題です。物事の秩序を意識できても、それだけでは意識自らの秩序を理解できないのです。意識が思い描く秩序を身体をとおして表現することで創造し、確かめることができます。自らの意識の有り様が鍵になります。
日常は無意識にまかせることでストレスのない生活ができます。意識しなくても、意識があって技術や能力を発揮しています。技術や能力は訓練や練習によって意識せずに発揮できる様になります。意識していない技術や能力を改めて意識すると、かえってぎこちないことになったりします。意識には意識できる顕在意識と意識できない潜在意識、あるいは無意識があるのです。日常生活も意識しない潜在意識によって支えられています。意識する顕在意識より潜在意識の担っている意識活動が基礎にあり、その働きは遙かに大きいのです。なにせ自分を意識する思春期の前、過去の自分の記憶が残っている以前、母の胎内にいるうちから意識は育ってきたのですから。
人には物心つく以前の記憶がありません。記憶がないのではなく、意識できる記憶として残っていないのです。人が言葉を覚えるからには単語や文法を獲得し、記憶したはずです。単語を意識し、文法を意識して記憶したはずです。言葉を使うことで意識は自らを明確に表現でき、自身確かめることができるようになります。しかしその意識したことを意識していないので、学習したことを顕在記憶として残せていないのです。獲得した言葉は覚えていても、どのように獲得したかは覚えていません。言葉を使って表現し、物事と自分自身を言葉によって説明することで、言葉で表現できる記憶が残る様になります。
言葉による表現を繰り返すことで、表現される物事と、表現する自分とを区別できる様になって、自分を意識できるようになります。自分を意識できるようになるのが、物心のつく少年期です。
自他を区別できる様になって物事を区別でき、関係づけることができても、自他の関係は特別です。自他の関係は、自らを対象として捉えることで可能になります。自らを自らではない、自らの対象とすることで、自らを他の対象との関係で捉えることが可能になります。自らを自覚する青年期です。
自覚した青年は、潜在意識も含めた自分全体と世界の物事全体を意識する様になります。全体からそれぞれを見直すことが可能になります。反省ができる壮年期です。
生長する意識ですが、もともと意識は対象をとらえることで覚醒しています。疲れたり、病気になったり、酔ったり、薬を飲んだりして対象をとらえることができなくなると意識は眠ってしまいます。覚醒した意識は対象との相互関係にあります。潜在意識が対象との相互関係、関係構造をとらえて態度、行動を決定しています。その潜在意識の上で対象を意識して顕在意識があります。
このことは顕在意識が潜在意識を後追いで確認していることで分かります。心理学の実験では、潜在意識が身体運動の開始信号を出した後、顕在意識が運動開始を決意することが明らかになっています。人は不合理であっても無意識の行為について何かと言い訳します。人は言葉を発した後に、文章を書いた後に、適正な表現であったかどうかを評価します。人は答えに達した後に分かったと感じます。
身体の対象としての物事は感覚を介して意識のうちに取り込まれています。潜在意識は身体の対象と関係していますが、顕在意識は潜在意識の表現を対象にしています。身体の対象としての物事と、意識によってとらえられた対象とは別物です。
別の言い方をすれば、意識にとって対象は身体の対象としての物事と、意識に取り込まれた観念とに二重化されています。身体の対象としての物事がなくなっても、意識のうちに取り込まれた対象は観念表象として記憶され、存在し続けます。対象は主観のうちに観念として存在し続けるのです。「あれ」として存在し続けるから、身体の対象として再び関係する「これ」と同じものであるかが分かります。
ここに主観と客観の単純でない関係構造があります。一般に「自己言及」とか「再帰関係」とよばれる構造です。意識は物事などを観念として意識します。顕在意識は潜在意識が観念として表現する対象を、対象として意識する観念です。顕在意識は潜在意識が表現する観念であり、表現される観念を対象にしています。観念である顕在意識が主観です。顕在意識は潜在意識を意識できないのですから、観念としてのみあり、観念のみを対象にしている主観でしかないのです。対象をとらえる意識として主観はあります。しかし意識してとらえた対象も主観です。主観は観る者でありながら観られる物です。
この観念である主観は意識の生理的有り様です。人の感覚も物事と接することだけでは成り立ちません。対象からの刺激を感覚器官の感覚細胞が電気的信号に変換することから感覚の複雑な過程が始まります。感覚細胞から伝えられた電気的信号を神経細胞のネットワークが比較し、増幅したり、抑制したりして中枢神経である脳に伝えます。脳でも多くの信号を比較分類し、対象からの刺激にもっとも適した運動をになう筋肉への命令に変換します。命令を選択する脳部位からの信号は運動制御をになう脳の部位を経て運動神経へ伝えられ、反応、行動が起こります。この脳内の神経信号処理過程で身体を制御するのに適した脳の構造が進化してきたのです。感覚として感じること、身体の反応を制御することの全体を対象として制御する意識が生まれたのです。感覚と反応は別々に独立していません。感覚は自らの反応も、運動も対象としてとらえています。身体内の様子も「気分」としてとらえています。
この感覚と反応のすべてを効率的に処理できるように、世界を神経細胞の活動によって顕在意識に表現しているのが潜在意識です。どのような仕組みで表現しているかは現代科学でも明らかにはできていません。いずれにしても潜在意識によって構成、表現されているのが感覚世界です。顕在意識は潜在意識の描く感覚世界を対象にしているのです。潜在意識は身体とその対象世界、物質世界を感じています。顕在意識は潜在意識の描く観念世界を介して、間接的に世界を感じています。身体の物質世界と顕在意識の感覚世界とが上手く重なる様に脳で潜在意識が様々な調整をしています。場合によっては上手く重ならず、ずれて錯覚を生じます。錯覚は脳が身体を効率的に制御する無理の結果です。それが分かれば錯覚も楽しみの対象になります。
当たり前のことですが、脳もしたがって、意識も頭蓋骨の中にあります。感覚器官への刺激は直接脳にも、意識にも届きません。神経系を介して潜在意識が世界を意識のうちに構成表現し、それを顕在意識が観ているのです。眼の前にありありと見え、響きが全身を浸すよう感じる様に、潜在意識が演出しているのです。意識が意識のうちに表現する世界は観念としてあります。その観念世界を意識は主観として観ています。
しかし、潜在意識による観念世界の構成はとても柔軟です。脳の可塑性とも言われます。通常脳の後ろに基礎的視覚を処理する部分がありますが、視覚障害者にはそこを触覚に使っている人もいるそうです。後天的に感覚の一部が失われても、限界はあっても他の感覚がカバーすることが可能です。霊魂の存在を信ずる人が言う「幽体離脱」も、実験で体験できるそうです。意識は身体感覚を超えて、道具の先端にまで集中できます。人は社会生活のなかで、他者の行為、気持ちを理解できる脳を進化させてきました。この脳のお陰で、人は身体を超えて、共感することができます。自然摂理の理解が深まれば、世界との一体感にまで及びます。
意識が物理化学的対象間の関係を超えられるのは、観念であるからです。観念が対象にする物事は主観において区別され、関係づけられています。ここで主観の意味は二重になっています。物事を対象としている意識の有り様としての主観と、意識された対象である物事としての主観です。意識の拡張は顕在意識が観念として、潜在意識の観念を対象にしているからできるのです。
対象が二重にあり、主観も二重にあります。身体の対象と意識のうちに取り込まれた対象。対象を意識する主観と意識のうちに取り込まれた観念、表象としての主観。主観は観る者でありながら、観る者へ表象され、観る者が表象した観念です。観る者としての主観であり、観る者によって観られた観念表象です。
こうした主観が観念であること、主観の観念性を踏まえることで客観を得ることが可能になります。主観が観念でしかなく、観念から抜け出られないことにより唯我論が生まれました。唯我論は意識だけが自分として存在し、対象は意識が作り出したと解釈します。また、主観を絶対化することで、主観を超えて対象を理解することはできないという不可知論も生まれます。唯我論や不可知論では客観など何の意味もありません。主観は主観でしかない観念ですから、主観をいかように探っても観念から抜け出ることはできません。主観は対象として与えられている世界を明らかにする以外は、主観の世界で空想を広げることしかできません。
先に見た様に、身体の対象は物質を基礎にした世界です。身体も物質を基礎にした代謝系としての生物個体です。生物としてのヒトはその物質代謝を共同して組織し、社会をつくって暮らしています。ヒトの生物としての身体に意識があり、観念世界を作っています。人々は社会でのコミュニケーションを通じて文化を形成しています。
こうした物質を基礎にした世界に位置づけられる意識として、自らの意識、主観を位置づけることで対象と主観との相対関係を超えて客観を獲得できるのです。ただし、物質世界を基礎としては主観の有り様を説明できません。主観の有り様が意識の内部での表現であるため、物質の有り様としては脳の神経細胞の活動としてしか存在しません。絵画が絵の具で描かれていてその配合、範囲、タッチ等、物質を基礎に説明することはできますが、何が描かれているかは人の意識が鑑賞しなくては説明できません。絵画そのものは物質として存在していても、描かれている対象を解釈できるのは人の意識です。まして脳内で意識によって描かれている意識、主観として主観によって描かれている観念世界を物質世界を基礎に説明することはできません。科学がどれ程発達しても意識の内部表現を再現することは不可能です。
逆に、単に主観を否定したのでは何も残りません。対象世界、物質世界を絶対化したのでは主体性、人間の尊厳は拠り所を失います。そもそも主観にとっては根拠となる確かな存在などありません。主観の観念性の超え方、対象と主観の相対関係の超え方が客観のあり方になります。観念である顕在意識が対象を感じ、知り、理解できるのは、自らも含む世界全体を対象にすることによってです。
「対象を知る」と言うことは、感じることではありません。感覚は感覚器官が対象からの刺激を他の刺激から区別し、他の刺激との関係をとらえます。感覚は対象からの刺激を対象にしています。感覚は対象そのものではなく、対象からの刺激が対象です。したがって、感覚では対象からの刺激の存在を感じますが、対象の存在を直接とらえることはできません。
「知る」ことは感覚ではなく、知覚の問題です。そして存在の問題になります。そして「存在」の問題は対象が「存在する」とはどういうことかに跳ね返ります。「対象が存在するか否か」を明らかにするには、「存在する」と言えるにはどういうことでなければならないか、存在とはどういうことかの基準が必要になります。にもかかわらず、不可知論は感覚だけを「知」の根拠にして知を否定しているのです。
結局、世界の秩序関係の中に連なっていることが存在することになると言えるでしょう。意識は身体とその対象を対象にする秩序にあって自らを他と区別しています。意識は対象との関係を失うと意識として存在できません。身体は自らの代謝秩序を維持更新して存在します。身体の代謝秩序は飲食、排泄、呼吸、という他との相互関係としてあります。物は物理化学法則として理解される秩序として存在し、運動しています。世界のすべての物事は他との相互作用秩序関係に存在し、運動しています。世界の存在はすべての物事の存在と運動としてあります。結局、存在とは他との相互作用として運動していることになります。存在を確かめることができるのは、他との相互作用関係を介して可能になります。それ以外の存在は推測か解釈でしか有りません。
時間、空間、無限、神までもが「存在するとは」の基準を明らかにしなくては、存在を問うことができないのです。他との相互作用関係、全体の相互作用関係として対象の存在をとらえることで、延び縮みする時間、歪む空間、存在確率、状態の重ね合わせなど物理学の不思議さを受け入れることが可能になります。物理学者は感覚の延長としての実験的検証ができないクオークの実在を知的論理によって認めています。数学の対象も感覚ではなく、知的論理によって実在秩序に表れます。感覚的にとらえることが存在を知ることではなく、世界の秩序に組み込まれているかどうかが存在の基準です。不完全性定理、不確定性原理、不可能性定理などから覚える不安を超えて、実践的に生活することが可能になります。
この他との相互関係、全体での相互関係に意識自らを位置づけることが客観です。主観が対象相互の関係、相互関係の全体を対象とすることが客観です。主観があって、主観が自らを超えて客観に至るのです。
客観は部分的にも可能です。対象と主観との関係で、主観自体の知的理解を対象間の関係に位置づけることで客観化が可能です。部分的、個別的客観化が可能なのは、意識を含め対象間の相互作用関係に普遍的秩序があるからです。他との相互関係、相互関係の全体に世界の普遍的秩序があるから、部分的、個別的客観化が可能になります。可能性の実現を保証するのは、世界の普遍的秩序をより良く理解することによってです。