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世界の構造


世界には様々な物事があります。
世界には様々な人々がいます。
そして、様々な物事を感じる私がいます。
あたりまえであっても、どのようにあり、どうのようにいるかとなると、なかなか合意はえられません。合意どころか反論が、疑問が次々と現れます。合意の基礎となるべき世界の構造をここに示したいのです。宇宙の構造ではありません。物質や精神などを含む全世界の構造についてです。

私は様々な物事、様々な人々、そして私自身を感じるのですが、感じるだけでなく、それぞれを区別し、関係づけています。区別と関係は感じること、知ることの基本です。区別と関係は、変わらないものの変わり方を手がかりにします。普段は違いだけで区別していますが、意識していなくても区別される関係が基礎にあります。意識的に関係づけないと基礎にある関係を見落とすことがままあります。他との関係で物事にはそのものとして変わらない普遍性があります。同時に物事には他の物事と互に異なって、変化する個別性があります。文法の関係で説明するなら、主語が変わらないもので、述語が変わり方を示します。やっかいですが、普遍性と個別性は哲学史の中でも大問題になったりして、なかなかすっきりとはいきません。

変わらないものの変わり方として、世界には秩序があります。区別と関係の普遍的あり様が秩序です。私たちは世界にある秩序に従って、秩序を利用して生きています。私たちは食べて、飲んで、排泄し、呼吸して生きています。どの秩序も、全体の秩序も破ったら生きることすらできません。体調という秩序は、とても複雑な新陳代謝系として実現しています。また、さまざまな道具には、使い方という秩序に従うことで役に立ちます。使い方という秩序を無視しては道具になりません。こうした諸々の秩序は感じるだけではなく、秩序の関係を理解する、知ることでより良く生きることができます。生物は秩序をより良く利用できるものが生き残り、進化してきました。さらにヒトは人類進化の過程で意識を発達させてきました。それぞれの人も生長の過程で意識を発達させてきています。意識によって秩序をより良く利用することで人の社会は発展してきました。
物事の秩序を明らかにし、秩序を法則として表現をするのが科学です。法則の表現秩序が論理です。秩序を論理として表現しているのが法則です。まだ科学も世界のすべての秩序を明らかにすることはできていませんし、永遠にできないかも知れません。しかしすでに明らかになった法則を利用することでより良い生活ができます。

世界の秩序を明らかにし、表現し、利用するのは私たちの意識です。世界の秩序を理解し、表現し、利用することで意識は生まれ、発達してきました。しかし、意識が意識できるのは意識の一部分です。意識は潜在意識、あるいは無意識とよばれる意識できない意識によって、意識できる顕在意識を成り立たせています。潜在意識が意識の基礎にあります。危急の際、顕在意識に頼っては間に合いません。反射的に、意識しないうちに決断を下さなくては間に合いません。状況が治まって、事態を意識できるようになってドキドキし、恐怖を感じることになります。普段でもほとんどのことを意識することなく生活できているのは潜在意識が働いているからです。
私たちが意識的にできることは、顕在意識を働かせることだけです。その顕在意識のあり様には程度があり、注意を集中することが高い意識でしょうか。低い意識は気が散ったり、対象も、自らも区別できず朦朧としている時でしょうか。高い意識に価値があるようです。しかし、普段何気なく行っていることを改めて意識するとこんがらがってしまうこともあります。そんな時、意識が邪魔をしています。
顕在意識は世界の秩序、自分の身体秩序、潜在意識の秩序を理解し、利用することで意識を働かせます。意識しないで決断し、行動できるように練習し、経験を生かします。特別な努力をしなくても、集中して物事に取り組めるようになるのも修練の賜物でしょう。潜在意識も含めた意識の秩序が心です。

意識は顕在意識しか意識できないことが哲学の大問題になります。
意識は顕在意識しか意識できず、顕在意識は意識が感じたことしか知りえません。顕在意識は意識による感覚イメージしか感じることはできません。顕在意識は意識が記憶したことしか考えることはできません。逆に言えば意識による意識内でのイメージを顕在意識が意識します。潜在意識は対象を顕在意識としてイメージし、顕在意識はそのイメージを感じています。意識の内部イメージを実現するのが顕在意識であり、実現されたイメージを意識するのが顕在意識です。顕在意識は意識によるイメージであり、そのイメージを対象として意識するのです。顕在意識は結果であり、顕在意識自身をつくりだしもします。顕在意識はそれ自身を作りだす原因でもあり、その結果でもあります。対象を前にした自分を対象にする循環する、再帰する関係にあります。
顕在意識が顕在でしかないことが哲学の大問題になってきたのです。

意識が意識できる顕在意識は観念世界として実現し、イメージされます。意識が意識できるのは観念世界だけです。観念世界の他に物質世界があります。物質世界は、意識が自らを感じる様には感じられません。顕在意識が感じることのできるのは、感覚器官からの神経信号を大脳皮質で潜在意識が投影した意識のイメージ=内部表現です。顕在意識は意識の内部表現をありありと、実在と感じます。しかしそれは潜在意識が描き出す意識の内部表現でしかありません。何でも感じることはできません。感じることのできる物事、範囲は限られています。あるがままに感じることすらできません。「あるがまま」は人それぞれの勝手な解釈でしかありません。
例えば「色」は、物理的に光の波長の違いとされます。しかし赤と黄色の点が混じると橙色に見える混色が潜在意識によってイメージされます。眼が見ている光の波長は変化していません。多義図形というのがあります。簡単な曲線がウサギに見えたり、アヒルに見えたりします。「ルビンの盃」では、黒と白のシルエットが盃に見えたり、向かい合った人の顔に見えたりします。潜在意識が解釈して異なる、対立するイメージを描きだし、顕在意識がそのイメージの間を揺らぐのです。顕在意識はいずれか一方のイメージしか見ることはできません。「ネッカーの立方体」というのもあります。平面上の直線の組合せですが立方体に見えてしまいます。しかも内側の角2点が手前に見えたり奥に見えたり切り替わります。顕在意識が実際に見ていると思い込んでいるのは、潜在意識によって解釈され、描かれた意識の内部表現なのです。けっして「あるがまま」ではないのです。
眼の盲点は視神経が網膜を通り抜ける穴で、光を感じる細胞はありません。しかし通常は盲点があることに気づきません。網膜の曲面に届く歪んだ、しかも逆さになった光の像を、目の前のありありとしたフルカラーの視界として見せているのは潜在意識です。近視の人が新しい眼鏡をかけると視界周辺の直線が湾曲して見えます。しかし新しい眼鏡になれると直線に見えてしまいます。
音では録音した自分の声は自分が話している声とは違います。自分の身体を伝わってくる自分の声と、空気の振動として伝わる声とは違います。自分が聞く自分の声の音色を人に聞いてもらうことは決してできないのです。音響技術によって自分の聞いている自分の声を再現できたとしても、同じであることは本人にしか分からないのです。
錯覚は潜在意識の解釈によって生じます。顕在意識が「錯覚」であると分かっていても、「正覚」を感じることはできません。両端に外向きと内向きの矢印がついた直線の長さは違って見えます。顕在意識は矢印を隠すことで同じ長さであることを確かめることができます。あるいは定規を当てることで同じ長さであることを確かめることができます。様々な錯覚も潜在意識による感覚の加工によって生じるのです。潜在意識による感覚の加工、調整は脳での神経細胞網の再配線として実現します。潜在意識が加工することで生物個体が生き残る可能性を広げ、進化を実現してきたのです。
もっと象徴的なのがランダム・ドット・ステレオグラムです。その発展形が視力が良くなると3D図として売られています。視線を調整練習して平行法、あるいは交叉法で並んだ2つの図形を眺めると、立体図形が飛び出して見えます。紙の上には立体などないのに、立体が見えてしまいます。
こうした感覚の加工のされ方を科学が明らかにしつつあります。感覚についてよりよく理解することでさまざまな障害も克服できるようになってきています。障害そのものの理解が社会的に変わってきています。今でも「色覚障害=色盲」による社会的差別が残っていますが、科学はその仕組みを明らかにし、技術的に、社会制度的に克服することを可能にしています。カラー・ユニバーサル・デザインなどが提唱されています。それぞれの困難が克服されるなら、かつての「障害」は、人それぞれの個性の違いになります。眼鏡をかけているか、いないかの違いの様に。
科学技術の進歩は便利になるだけでなく、感じる能力、知る能力をも拡張してきました。顕微鏡で細胞を見ることができます。望遠鏡で遙か彼方、百億年以上昔の天体を見ることができます。眼で見える可視光だけでなく、赤外線、紫外線、電波、X線、等の「光」でも見ることができます。顕在意識は見ること自体を工夫して、世界の様々な物事を見えるようにしています。

しかし、顕在意識は意識が作り出したイメージしか対象にしていません。潜在意識が対象からの様々な信号から作り出すイメージを顕在意識は対象にしています。意識によって作られたイメージは物質ではない観念です。顕在意識は潜在意識が作り出す観念だけを対象にしています。
物質世界と観念世界の関係はテレビ画面を見ることに例えられます。見えるのはテレビ画面だけです。見ている者には、映されているのがライブ映像なのか、録画の再生なのかを区別できません。カメラがとらえた画像なのか、コンピューター・グラフィックで描かれた画像なのかも区別できません。また、画面以外の操作ボタンやテレビ台など意識していません。
顕在意識は観念である仮想現実を見ているのです。ですから自然科学系の学者の中には「意識は幻想である」という人もいますし、「意識は存在しない」という人もいます。意識が物理的存在ではないのですから、物理的性質があることを「存在する」こととする立場では、意識の存在を否定するのももっともです。
逆に、顕在意識は観念であり、観念しか対象にしませんから、物質の存在を否定することもできます。顕在意識は物質世界を認めるか、物質世界と観念世界の関係をどう理解するかで様々な哲学を生み出してきたのです。

顕在意識は直接物質世界を感じることも、知ることもできません。直接知ることはできなくとも、不可知ではありません。もともと「知る」と言うこと自体が顕在意識だけのことではありません。顕在意識が潜在意識と、身体とを介して知るのです。
「直接的」感じは対象を「知る」ことではありません。見たり、聞いたりできるのは一面でしかないのですから。一度に一つの視点からしか見ることはできません。円錐の底は円盤にしか見えません。真横からは三角形にしか見えません。視点を動かして斜めからも見て円錐であることが分かります。視覚的にも多様な視点からの感じを総合することで対象の形を知るのです。円形と扇形からなる展開図を組み立てて円錐を作ることで構成を知ります。液体をビンに移ことで円錐形の機能を理解します。「光円錐」は世界の時空間構造の感覚的理解を容易にします。他の図形との関係を知ることで円錐の理解が広がります。様々な他との関係によって、関係として個々の対象について知るのです。より多くの他との関係を知ることがより良く知ることであり、世界全体の関係で知ることが逆に世界をより良く知ることになります。知ることは他との関係、全体での関係を知ることであり、個々の一面を確かめることではありません。
対象として有るか無いかが存在ではありません。知識としての物事を対象に当てはめることだけが、存在を「知る」ことではありません。感覚器官だけでなく、道具を使い、設備を使い、他の知識との関係を知り、社会的に伝えられる情報、蓄積された情報と関連づけ、評価することが知ることです。
知ることは何かを感じることではなく、何であるかを理解することです。「何であるか」は他との区別と関係です。他と区別される性質があり、性質が他との関係に現れることで対象が何であるかが分かります。自らを含めた世界の関係秩序にそれぞれの対象秩序を位置づけることが「知る」ことです。

最後に、「潜在と顕在を区別などしないで、あるがまま、感じるままで生活できるではないか」との反論が当然に出て来ます。「感じるままを受け入れる、納得できれば難しく考える必要などない」「哲学など不要だ」との根拠にもなっています。
しかし、世間では「オレオレ詐欺」がいまだに流行っています。詐欺では欺されていることに気づかないから被害者になります。詐欺師が描いた、作り出した世界から抜け出なくては被害を免れません。犯罪だけではありません。それぞれ納得するから見合った金銭、報償を支払います。心地よい、感動的な物、環境が提供されれば、対価を支払ってもよいと納得します。納得するだけなら詐欺でも芸術でも区別はありません。世の中には得する人と損する人がいます。人々を納得させ、諦めさせることで犯罪にはならなくとも、巨万の富を手にする人々がいます。それで良ければ哲学など不要です。何が正しいか、その根拠になるそもそもの基準を探し求めることが哲学の肝心です。

潜在意識と顕在意識からなる観念世界、そして観念世界を作り出している物質世界から世界の構造は成り立っています。生まれ育ってきた経験で身につけた世界の観方だけでは、世界を正しく、広く観ることはできないのです。観念世界には感覚の限界があり、錯覚を含む加工、調整があることを承知した上で、物質世界とからなる世界が理解できます。顕在意識の対象と潜在意識の対象とがずれずに重なり合って、ありありとした実在を感じることができます。顕在意識は潜在意識と身体とを理解できて、世界を正しく知ることができるのです。