二元世界

世界は作用と表現の二元からなります。
作用と表現を実現する存在を実態と呼ぶこともできますが、存在の言い換えに過ぎません。
物質一元論では意識を説明できません。
逆に意識は物質を理解できません。
一元、二元の「元」である次元は自由度です。
世界の作用は物理的相互作用から歴史的に発展してきました。
世界の存在表現は相互作用関係の連なりです。
また、世界の対象表現は相互作用関係発展の経過です。
人は世界の表現の極々一部分を身体を介して受容し、認識しています。

ヒトは身体が受容する対象表現を神経信号に変換し、神経信号を媒体に世界を意識として再表現しています。

意識は世界を対象として理解しようとします。
理解しようとする対象と、主体とが相対します。
ここから素朴に二元論が成り立ちます。
しかし、主体も対象とともに世界に存在します。
ここから素朴に一元論が成り立ちます。
一元論に基づいて世界の存在は物質であるとされています。
しかし、物質が何かは明らかになっていません。
物質は今日では量子として、粒子でも波動でもあり、個別対象としての局所性もありません。
今日確かな存在は作用と表現だけです。
存在は作用によって現れ、作用として表現されます。
そして物理的存在は相互作用として実現しています。
作用は表現され、データとして受容されます。
表現は作用を表現媒体として作用を超えて保存されます。
ここに作用と表現からなる二元論が始まります。

意識は多細胞生物の感覚と運動を制御する中枢神経系の情報処理として実現しました。
意識には潜在意識と顕在意識の区別があります。

今日の科学的解釈は物質一元論ですが、私は存在を実態と表現の二元として解釈します。

何故なら、

私は、私自身を意識する存在として認識しています。
私である意識は私の身体を構成する脳神経細胞網の神経信号によって表現され、その表現を意識しています。
表現とその受容の再帰する二元性がまずあります。

意識の二元性はさておき、私の意識存在は神経信号の表現です。
神経信号は神経細胞の発火で表現されます。同時に神経信号は神経細胞網へ伝えられた情報を表現しています。

信号は一般に信号自体の存在表現と、信号によって媒介される情報の表現を担っています。
存在表現が信号の実態であり、情報表現が信号の表現です。信号は実態と表現の二元としてあります。

意識も神経細胞網の発火である実態と、神経信号の表現の二元としてあります。
意識表現の対象として意識の外に、意識の次元とは別の次元として物質が存在します。

私の意識は感覚と感情、そしてその記憶としてあります。
私が意識できるのは感覚、感情、記憶だけです。
意識は対象として感覚、感情、記憶を表現し、その表現を受容しています。

意識である感覚、感情、記憶は私の身体身体の対象とを表現しています。
感覚、感情、記憶によって表現される身体と身体の対象を意識します。

感覚、感情、記憶の表現としての意識と、感覚、感情、記憶が表現している対象とで二元をなしているのが世界です。

感覚、感情、記憶は意識の対象であり、意識の表現です。
感覚、感情、記憶が表現している対象を実態と名付けます。
実態も実態間の相互作用で相互に表現し、互いの表現を受容しています。
世界は表現と実態としてあります。

終わり

暫定版:2023.06.20