始めに
脳 *では
神経信号のやり取り *だけですから、そこに実現する意識は物質ではない幻想であると主張します。
意識についての科学者の評価が真っ向から対立します。
意識の
存在 について、再考すべき時代になっています。
意識と
身体 の存在関係を問う「
心身問題*」の復活「
心脳問題*」です。
物質は身体の対象であり、身体もまた物質です。
身体は物質が相互作用して存在し、生きています。
身体は物質との相互作用がなければ何物とも関係しようがありません。
意識は身体と身体の対象との区別と相互の作用関係を感じてあります。
身体が物質と意識とを媒介します。
身体と身体の対象である物質が意識の対象になります。
しかし、自分の意識は意識する対象になりません。
自分の意識を意識する反省の対象になる意識は、過去の記憶です。
反省する自分の意識と、反省される自分の意識が同一では反省できません。。
まして、他者の意識は確かめようがありません。
物質と意識は存在の仕方が違います。
物質は意識がその存在を問う対象です。
物質と意識の関係で、対象にする存在が意識です。
物質と意識の関係で、対象になる存在が物質です。
「物質と意識の関係」での、関係形式での違いです。
「物質と意識の関係」の内容にまで立ち入らない違いです。
意識は対象の存在を問う存在でます。
「存在」「物質」「意識」「対象」を問います。
「存在」は「対象」と「物質」は「意識」と対になります。
問うのは「意識」です。
「存在」は「対象」であることです。
「意識」の「対象」が「物質」です。
「意識」自体も「意識」の「対象」になります。
「対象」となる「物質」と「意識」の「存在」を問います。
「意識が対象にする存在が物質である」を前提にします。
「物質は存在するか?」は問題になりません。
「物質とは何か?」は「存在とは何か?」と同じ問題です。
「物質はどの様な存在であるか?」が問題です。
「存在はどの様に意識されるか?」も同じ問題です。
意識は「対象」の「存在」を問います。
意識は「対象は存在するか?」「対象はどの様に存在するか?」と問います。
世界は物質が相互作用して始まり、物質の相互作用が生物を誕生させ、生物の進化が意識を実現しました。
科学を学ばずに他の世界解釈を受け入れる人々も未だに大勢います。
科学は他の世界解釈を説明します。
しかし、他の世界解釈は科学を説明できません。
科学も完成していません。
物質の相互作用が始まる前、あるいはどのうに物質の相互作用が始まったかは科学の対象にはなりません。
相互作用によって産まれた人間としては調べる手立てはなく、想像するしかありません。
科学は人類が歴史を通して学んできた世界の普遍的理解であり、理解の普遍的方法です。
科学が発見し、積み上げてきた成果を無視して人類社会は成り立ちません。
この前提で存在を、二元論を問います。
物質では無い意識の存在根拠を解釈します。
「存在は作用と表現の二元からなる」とするのが私の
解釈 です。
表現を作用と並ぶ存在次元とするのが肝です。
作用は相互に対象となる個別の存在を実現します。
存在の実現は「現象学」と同じ存在の解釈です。
全ての存在は相互作用しています。
化学反応も、生物の
物質代謝*も相互作用の
平衡系*として安定します。
物質代謝は同化と異化とからなる相互作用です。
人の社会も物質代謝を財の生産、流通、消費として組織化しています。
文化はコミュニケーションによる意識の相互作用です。
表現は実現する相互の区別と関係です。
実現は相互を区別して表現します。
区別は同一性と差異性で個別を表現します。
個別は存在を直接表現します。
個別間の関係は相互存在の間接表現です。
関係は互いを非自己である「他」と否定する媒介表現です。
関係表現は関係の関係をも区別して表現を高次化します。
個別の組合せ関係も個別として表現します。
表現される対象を否定して「非存在」も表現できます。
区別される個別の存在、個別の関係の存在が表現されます。
表現された個別は対象として受容されます。
人だけが対象を個別として受容するのではありません。
存在一般が、互いに表現する対象を互いに個別として受容しています。
対象の受容によって個別は相対的に規定されます。
階層をなす相互作用では階層ごとに個別は異なる規定で表現されます。
素粒子、原子核、原子、分子、細胞、多細胞生物個体、人間、人格等、さらに細かい区分のすべての階層での対象がそれぞれ個別です。
個別はそれぞれ全ての階層での相互作用によって局所化されています。
個別の「表現」が存在次元として、客観的対象としてあります。
個別は相互作用単位の表現です。
個別は相互作用単位として客観的存在です。
実体は「体」をなしますが、体をなす元の存在としての実態です。
意識が意識の内に閉じ込められた不可知論ではなく、認識の限界を認める不可知論です。
哲学では「
物自体*は認識できない」とのカントの解釈があります。
物理学でも物質の
相補性*、
非局所性*について誰も理解できていません。
波でも粒子でもあり、非局所的な対象の具体的表現は思い描けません。
科学がどれ程進歩しても、既知の先に未知の対象が現れます。
実態は常に相互作用しています。
すべての存在は運動していています。
全ての運動が静止すると想定される
絶対零度*でも揺らぎは治まりません。
実態は物理場の相互作用によって
量子*を出現しています。
実態の表現は個別と全体です。
相互作用は対象としなる相互を個別として表現しています。
個別表現の関係から、様々な抽象的対象が表現されます。
物理的存在の基礎をなす「量子」自体が抽象的個別の存在表現です。
相互作用関係の連なりが全体を表現しています。
しかも、過去から作用してきた経過も、歴史も表現しています。
全てが表現されているから、この世界として受け止めることができます。
実態世界は存在すべてからなる全体を表現しています。
人が認識できる範囲は質、量ともに世界の極一部分です。
しかも意識できる感覚は表現の一面です。
存在の表現は相互作用に
媒介 され、受容されて次々伝わっています。
相互作用は互いを表現し、互いの表現を受容します。
相互作用は関係を表現し、経過を表現しています。
世界は人の意識にかかわらず存在を表現し、互いの表現を受容しています。
相互作用の一部分が脳の神経信号処理として意識の表現になります。
意識のほとんどは潜在意識が担っています。
潜在意識が世界の存在表現の一部分を受容し、意識する世界を顕在意識に対して表現しています。
世界の表現の一部分が意識として再表現され、再表現された意識世界が意識されます。
意識は受容した意識世界を表現し、意識された意識世界を対象として意識します。
意識は意識する主体であり、意識される客体でもある再帰表現であることが肝要です。
意識は身体経験の感覚と感情とを受容し、身体経験に被せて世界を表現し、記憶しています。
意識は感覚と感情、そしてその記憶で構成されます。
意識には感覚、感情、記憶以外何も見つかりません。
身体の運動を経験しなければ時間も空間も意識できません。
意識する時空間は身体動作に伴う
深部感覚* と、五感等の
特殊感覚* が対応しての表現です。
身体動作による深部感覚が延長と方向と時間を表現します。
深部感覚が表現する延長、方向、時間が意識世界を描く画面を構成します。
特殊感覚の神経信号が深部感覚が構成する画面に表現されます。
深部感覚と特殊感覚の対応表現、統合表現は常に更新されています。
深部感覚と特殊感覚の対応、統合が不調になると深刻な目眩すら生じます。
全体が相互作用して表現する世界を意識が受容します。
意識は意識された対象、意識できる対象しか意識できません。
熟睡しているとき、
全身麻酔* をかけられたとき意識は失われ、何も意識できません。
熟睡は顕在意識が寝ているのであって、潜在意識は記憶を整理するなど活動しています。
全身麻酔で意識は活動を停止します。
麻酔で感覚を担う神経信号処理が停止します。
意識は脳での神経信号処理表現だけしか意識できません。
しかも、脳に届く神経信号表現は限られた感覚器官からです。
さらに、感覚器官の能力も限られています。
感覚はヒトへの進化で獲得され、よって制限されています。
環境からの刺激は五感に限られ、五感もそれぞれ生活環境に適応した範囲に限られます。
意識は意識の対象を表現し、表現された対象を意識して
再帰 しています。
意識は自己言及して成り立っています。
脳神経信号が描く身体と環境世界の表現を脳神経が受容しています。
意識は自らが受容している表現世界を否定できません。
表現世界の存在否定は意識の自己否定になってしまいます。
意識を含め意識の対象となる存在を確認するのは意識だけです。
意識は区別と関係を論理で表現して、普遍的世界の表現へ拡張できます。
このような存在解釈が私の世界観です。
意識できている世界は感覚と感情とで表現される世界の感じ、世界感です。
世界感を反省して、科学に学び、論理的表現としての世界観を目指します。
2025.08.06