始めに
脳では神経信号のやり取りだけですから、そこに実現する意識は物質ではない幻想であると主張します。
物質の状態は人が観測することでも変わってしまいますから、観測する人の意思が原因になってしまいます。
意識についての科学者の評価が真っ向から対立します。
人工知能は自然な会話どころか通訳すらしてくれます。
意識の
存在 について、再考すべき時代になっています。
意識と
身体 の存在関係を問う「
心身問題*」の復活「
心脳問題*」です。
「心」はともかくも、意識と物質とが区別されます。
物質は身体と身体の対象として身体と相互に作用する存在です。
意識は身体と身体の対象との区別と相互の作用関係を感じてあります。
物質と身体とを媒介する存在として身体があります。
世界は物質が相互作用して始まり、物質の相互作用が生物を誕生させ、生物の進化が意識を実現したことが前提になります。
科学を学ばずに他の解釈を受け入れる人も大勢います。
しかし、科学が次と発見し、積み上げてきた知識は否定できないでしょう。
物質の相互作用が始まる前、あるいはどのうに物質の相互作用が始まったかは、相互作用によって産まれた人間としては調べる手立てはなく、想像するしかありません。
物質の相互作用によって存在し、生きている人間にとって、物質と相互作用しない存在は良くも悪くも何ももたらしません。
現にこうして物質としての身体で、その脳で関われないものごとを知りようも、理解しようもありません。
身体は物質の新陳代謝によって生き、脳の神経信号処理によって意識しています。
この前提で存在を、二元論を問います。
ただし、「
物質」自体は意識との関わりでその存在を問う対象です。
「物質存在は作用と表現の
二元 からなる」とするのが私の
解釈 です。
表現を作用と並ぶ存在次元とするのが肝です。
作用も相互に区別し、相互の関係を実現します。
全ての存在は相互作用して互いを区別し、関係しています。
物理的物質は重力、強い力、弱い力、電磁気力の四つの基本的相互作用としてあります。
相互作用していない区別と関係は空想です。
空想は相互作用していないので確かめる手段がありません。
作用し、表現される存在として
実態 を想定します。
意識の内に閉じ込められた不可知論ではなく、認識の限界を認める不可知論です。
哲学では「物自体は認識できない」との解釈があります。
科学がどれ程進歩しても、既知の先に未知の対象が現れてきまあす。
実態は常に相互作用しています。
実態は物理場として常にゆらいでいます。
実態は物理場の相互作用として量子を出現しています。
量子は素粒子、原子核、原子、分子、細胞内器官、細胞、多細胞生物を構成しています。
実態の表現は個別と全体です。
相互作用対象としての相互を個別として表現しています。
相互作用関係の連なりを全体として表現しています。
しかも、過去から作用してきた経過も表現しています。
世界は存在すべてからなる全体を表現しています。
人が認識できる範囲は質量ともに世界の極一部分です。
しかも意識できるのは感覚として表現される一面です。
存在の表現は相互作用に
媒介 され、受容されて次々伝わっています。
相互作用は互いを表現し、互いの表現を受容します。
相互作用の関係は構造を表現し、経過を表現しています。
世界は人の意識にかかわらず存在を表現し、互いの表現を受容しています。
その一部分が脳の神経信号処理で意識の表現になります。
意識は世界の存在表現の一部分を受容し、意識する世界を意識に対して表現しています。
世界の表現の一部分が意識として再表現され、再表現された世界を意識します。
意識は受容した意識世界を表現し、意識された意識世界を対象として意識します。
意識は意識する主体であり、意識される客体でもある再帰表現であることが肝要です。
意識は身体経験の感覚と感情を受容し、身体経験に被せて世界を表現し、記憶しています。
意識は意識された対象、意識できる対象しか意識できません。
熟睡しているとき、全身麻酔をかけられたとき意識は失われ、何も意識できません。
熟睡は
顕在意識が寝ているのであって、
潜在意識は記憶を整理するなど活動しています。
全身麻酔では潜在意識を含め意識は活動を停止しています。
意識は脳での神経信号処理表現だけしか意識できません。
脳に届く神経信号の元になる刺激は限られた感覚器官の限られた能力が受容します。
意識は意識の対象を表現し、表現された対象を意識して
再帰 しています。
意識は自己言及して成り立っています。
意識は自らが受容している表現世界を否定できません。
表現世界の存在否定は意識の自己否定になってしまいます。
意識を含め意識の対象となる存在を確認するのは意識だけです。
このような存在解釈としての私の世界観です。
2025.01.17